本当は「深い」映画「ちょんまげぷりん」

「ちょんまげ」と「プリン」だけの話ではありませんから!

主題歌

REMEMBERYOU-忌野清志郎

エンディングに使用された「REMEMBERYOU」は、恋人のことを忘れられない切ない気持ちを歌った歌。まさに、映画とぴったりの楽曲となっている。この楽曲の起用には、もともと清志郎さんや、RCサクセションファンという中村監督の強い希望があったようだ。監督自身も、「この映画の脚本を書いているときに、たまたま「REMEMBERYOU」を聴いて、映画で使われるかどうかは別として、『こういう映画になればいいな~』と思い、プロデューサーに熱烈にアピールしました。この映画を観て「REMEMBERYOU」を聴いて、いい気分になって帰ってもらえたらいいな、と思います」と語っている。

サムライスーツ?!

REMEMBERYOU-忌野清志郎 歌詞

作詞:忌野清志郎・三宅伸治
作曲:忌野清志郎・三宅伸治

RememberYou すべて忘れたとしても
RememberYou 君を憶えているよ
僕の目が耳が口が胸が どうやっても君から離れない

RememberYou すべてなくしたとしても
RememberYou 僕は憶えているよ
君の目を耳を口を胸を そうさ今も忘れられないのさ

HeyHeyHey すべては変わってしまった
HeyHeyHey すべては消えてしまった
この手の中には もう何もない
空っぽの夜が ただ笑ってるだけ

RememberYou 今は何も見えないよ
RememberYou 何も聞こえはしないよ
君の目に耳に口に胸に どうやっても二度と届かない

HeyHeyHey すべては変わってしまった
HeyHeyHey すべては消えてしまった
この手の中には もう何もない
空っぽの夜が ただ笑ってるだけ

RememberYou すべて忘れてしまった
RememberYou だけど憶えているよ
君の目が耳が口が胸が どうやっても僕から離れない
どうやっても僕から離れない

忌野清志郎(いまわのきよしろう、本名:栗原清志〈くりはらきよし〉

1951年4月2日-2009年5月2日)は、日本のロックミュージシャン。

RCサクセションを筆頭に、忌野清志郎&2・3'S、忌野清志郎LittleScreamingRevue、ラフィータフィーなどのバンドを率い、ソウル・ブルースを下地にしたロックサウンドを展開。RCサクセションの「KINGOFLIVE」からの流れで、KINGOFROCKの異称を取った。

コハカスガイ?!

経歴

少年時代からバンドデビューまで

東京都中野区生まれ、国分寺市育ち。

小学生時代は漫画に熱中し、自作の漫画を近所に住んでいた吉田竜夫に見てもらったこともあった。

国分寺市立第三中学校時代にエレキブームに刺激を受け、ベンチャーズなどのカバーバンド「NoName」を結成、音楽活動を始める。

1966年初頭、フォークブームに刺激を受け、同級生でバンド仲間だった小林和生(のちの林小和生)、桶田賢一(のちの破廉ケンチ)と共に「TheClover」を結成するが、東京都立日野高等学校進学に伴い、活動は停滞する。尚、高校の同級生に三浦友和がいる。

高校時代、忌野はサイケデリック・ミュージックの流れでビートルズやザ・バンドを聞き込んでいたが、ジョン・リー・フッカー好きの友人の影響で、ブルースに傾倒するようになる。

その後、バンドの解散/再編(TheClover→「TheRemaindersofTheClover」→「TheRemaindersofTheCloverSuccession」、1968年に「R.C.サクセション」に定着)を繰り返す。

忌野という名前の由来は、当時見ていたTVアニメ『マイティ・ハーキュリー』の中で、鉄仮面に対する「あの忌まわしい鉄仮面」というナレーションから拝借している。

1970年、フォークグループRCサクセションとしてシングル「宝くじは買わない」でデビュー。

1972年、シングル「僕の好きな先生」が小ヒットしたものの後が続かず、また事務所関係のトラブルが発生したこともあり、長期にわたってバンド活動は低迷する。

その間、忌野は井上陽水との共作「帰れない二人」「待ちぼうけ」(ともに『氷の世界』収録)、かぐや姫への作詞提供「あの唄が想い出せない」(『はじめまして』収録)などの印税で糊口を凌いだ。

バンド全盛期からソロ活動まで

1976年、事務所を「ホリプロ」から「りぼん」に移籍。スタジオミュージシャンを大々的に起用したアルバム『シングル・マン』を発表。以降、徐々にロックバンド化(俗に「エレキ化」と言われる)。

1977年からメンバーの脱退・加入を繰り返しながら、精力的なライブ活動を展開。

1978年半ば頃から徐々にライブハウスでの人気が出始め、この時期からデヴィッド・ボウイ等のグラムロック一派やミック・ジャガーの影響で化粧を始め、またパンク・ファッションの影響でパンクヘアにカットしたことから、独特の奇抜な風貌になる。

1979年には音楽ライターの吉見佑子が『シングル・マン』再発実行委員会を組織するなど、音楽的に評価する空気が高まる。

1980年のシングル「雨あがりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」、アルバム『RHAPSODY』のヒットで、YMOの坂本龍一と並び、RCサクセションの忌野清志郎はメディアの寵児として取り上げられることになった。

1982年、坂本龍一と組んでシングル「い・け・な・いルージュマジック」を発表。これ以降、RCサクセションとしての活動のかたわら、数多くのユニットでも活動。

このころ、ハードスケジュールなどがたたって肝臓を病むが、東洋医学などの文献を読み漁り家庭治療を実践し、奇跡的に完治している。

1984年、この時期の事務所の対応に不満を募らせ事務所「りぼん」から独立。

1985年、RCサクセションの事務所「うむ」を設立するが、このころからRCサクセション内でも各メンバーのソロ活動が活発化し、バンドの活動は停滞。

この時期、忌野はライブ・エイドの日本放送版に「DANGER」で出演したり、『MerryXmasShow』に出演したりなどした。

1987年、初のソロアルバム『RAZORSHARP』を発表。

1988年、RCサクセションのアルバム『COVERS』の発売中止騒動を受けて、忌野とよく似たZERRYという人物がザ・タイマーズを結成し、アン・ルイスのライブに飛び入り。以降、さまざまなミュージシャンのライブ・イベントライブに乱入を繰り返す。

忌野がTEARDROPSに作詞提供&コーラス参加した「谷間のうた」がFM仙台とFM東京で放送禁止になった事件(1989年9月)を受けて、アルバム『THETIMERS』のプロモーションで生放送の音楽番組ヒットスタジオR&N(フジテレビ)に出演(10月)した際に、キャラ設定をいかした巧みなメドレー形式を逆手にとった、その中の一曲をFM東京・FM仙台を放送禁止用語を交えて罵倒する歌に差し替えるという荒業を見せて話題になった。時期を同じくしてRCサクセションの崩壊(メンバーの脱退・加入が激しく、すでに実態がなくなっていた)が進む。

1990年9月、アルバム『BabyaGoGo』発売し、それに付随するツアーの最終日の武道館公演(12月25日)、

1991年、RCサクセションは無期限活動休止を表明。RCサクセションの事務所「うむ」も解散したため、忌野は個人事務所「ベイビィズ」を設立。

RCサクセションの解散以降、前にも増してさまざまなバンド・ユニットを渡り歩く。

1994年、プライベートスタジオ「ロックンロール研究所」を設立する。一方で俳優としての活動も始める。

同年、映画『119』に音楽監督として参加し、翌1995年の第18回日本アカデミー賞で最優秀音楽賞を受賞。

この時期、忌野と良く似たZERRYという人物が率いるザ・タイマーズが活動を再開。彼らのレコ倫を通らない楽曲を発表させるために、インディーズレーベル「SWIMRECORDS」を設立。

1999年、「忌野清志郎LittleScreamingRevue」のアルバム『冬の十字架』、2000年に「ラフィータフィー」のアルバム『夏の十字架』が三度発売中止騒動に巻き込まれるなどトラブルを数多く抱えるなか、デビュー30周年記念のトリビュートコンサート「RESPECT!」を日本武道館で開催し、多くのミュージシャンが忌野(およびRCサクセション)の楽曲を演奏した。

2000年、サイクリングにはまり、ラフィータフィーのメンバーを勧誘してチームLSD(LongSlowDistance)を結成し。以降、ツアー間の移動に自転車を使ったり、奥の細道自転車ツアーやホノルル・センチュリーライドなど数多くの長距離サイクリングにも挑戦した。

2001年、中学時代の同級生に自転車の専門誌『サイクルスポーツ』の編集長がいたことから、そのつてでプロ仕様の自転車(特注)を入手。

2004年、サイクリング中に落車して左の鎖骨を骨折という事故を起こす。

2005年、愛車「オレンジ号」の盗難(のちに無事発見)という災難に遭う。しかし、生涯自転車熱が冷めることはなかった。

入院生活、そして最期のメッセージ

2006年5月、メンフィスでアルバム『夢助』(10月発売)をレコーディングして帰国。

2006年7月13日、公式ウェブサイト「地味変」にて喉頭癌で入院することを発表し、すべての音楽活動を休止する。

癌の摘出をすると声が出なくなると宣告されたことから、放射線や抗癌剤での完治を図り、入院後2週間で代替医療へと治療法を変更。

これは、がんセンターでの現代医学的な治療計画では胃に穴を開けての流動食生活となることを余儀なくされ、これに伴い唾液腺が消滅し、唾液が出ないためステージで歌うのは困難になると言われたことから。

2007年1月、石田長生のライブにシークレットゲストとして出演して以降、徐々に活動を再開した。

2008年2月10日、日本武道館にて『忌野清志郎完全復活祭』を開催し、本格的に活動を再開する。

2008年7月14日、公式ウェブサイト「地味変」にて左腸骨への癌の転移を発表し、再びライブ活動を休止。

通院して治療に専念する一方で、楽曲提供や他ミュージシャンのレコーディング参加、ライブへの飛び入り参加などを続けていた。

11月、ファンクラブの会報が100号を突破する。

ほぼ同時期に間寛平への応援歌を描き下ろし自身の作品としては2年ぶりにレコーディングを行い、BookerT.&THEMG'sのライブに飛び入りするなど徐々に音楽活動を再開する。

FM802のキャンペーンソング「Oh!RADIO」を書き上げた2009年2月以降に体調が悪化。

当初は同曲を歌うユニット「RADIOSOUL20」に参加する予定だったが、体調不良でキャンセルして東京都内の病院に入院。

その後、病床で3月にファンに向けてデビュー39年記念イラスト「39!BABY」を書き上げ、これが最期のメッセージになった。

ちょんまげ好きにも!